メッセージ

呼びかけ人からのメッセージ

尊厳死の法制化は、国家による個人の死の収奪である

平川克美

わたしは、いわゆる安楽死、緩和医療、ホスピスなど一般を否定するものではない。どれも必要かつ重要なことだと思っている。医療の現場においては、それが病院であれ在宅であれ、治療の方法や、終末期に対するケアに関しては患者の意思、家族の意思、それら相互の関係、環境や経済状況などによってそれぞれに異なるだろう。

それらは、まさにその言葉の本来の意味においてケースバイケースであり、そうあるべきである。
そのうえで、わたしは「尊厳死の法制化」には明確に反対する。
その理由は、原理的に言って、ひとの生き方が法律によって拘束されることがないのと同じように、ひとの死もいかなる法律によっても拘束されるべきではないと考えるからである。

ひとが生きていくことに関して、何人もその生き方を拘束することはできない。生き方こそは、人間に与えられたもっとも基本的な自由であり、生き方の自由こそ人類が差別の歴史のなかから勝ちとってきた最低限の権利だからだ。

死に関しても同じことが言える。

なぜなら、死とは生き方のひとつであり、そのことに関して社会的コストといった功利的な理由や、医師の免責の理由や、家族の負担といった理由や、あるいは国家の財政的な理由などによってひとの死を法律によって拘束したり、収奪することはできないからである。

尊厳死の法制化を主張する人々は、あくまでも個人の自由意志を尊重していることを主張するだろう。しかし、自由意志の尊重としての死の選択は、これをひとたび法制化すれば、もはや自由意志とは程遠いものとならざるを得ない。なぜなら、法制化なるものが「意志の強制」に他ならず、そこでは意志しないという自由は排除されることになるからだ。
「尊厳死」も「延命」も選択しないという選択があるのだ。そしてほとんどの場合、ひとは自分の生について確固たる選択ができないように、自分の死に関しても事前にそれを選択することはできない。生も死も、その本源は自然に属しておりひとがそれを加工したり、捻じ曲げたり、やり直したりすることができないものだ。生の一回性ということが、哲学的な主題であったように、死の一回性もまた哲学的なテーマであり、当今の価値観や尺度によってそれらを計量したり、操作したりすることには十分慎重であるべきだろう。 生も、死も事後的に自分が何を選択したのかということがわかる。それが、一回性ということの深い意味だと知るべきである。それらを事前に決めることはできないのだ。

誰が、如何なる権利において、人の死に方の選択を強要することができるというのか。いったい如何なる理由において、尊厳死なるものを法制化しようとするのか。

法制化は、個別的であり、同時に普遍的でもある生と死の問題に、現世的で一般的な解決を与えようとするものであり、傲慢かつ性急な発想の所産である。

冒頭に述べたように、生が個別的なものであるように、死もまた個別的なものである。介護や診療の現場において、どのような方法を選択すべきかは、あらゆる個別的な条件を配慮しながら、現場の医師とケアされるもの、その関係者によって決定されるべきものである。そこでは、多くの困難と解決の方途の見えぬ問題と逢着することになるだろう。しかし、それらの問題に対して、法律の名の下に簡易的な解決を与えてはならないだろう。どれほどの困難があるとしても、それこそが当事者が引き受けなければならないことであり、生も死もその引き受けの結果なのだ。もし、尊厳という言葉を贈りたいのなら、それは死に対してではなく、当事者が引き受けた労苦に対して与えられるべきだろう。

対して尊厳死法案とは、死と直面している当事者に対して与えられるものではなく、専ら死の対岸に在るものの利便のための法案にならざるを得ないだろう。

わたしは、「尊厳死」なるものを受け入れない。誰であっても、ひとの死を「尊厳のある死」と「尊厳のない死」という線引きをすることはできない。
「尊厳死」の法制化に関しては、政治家や、医師、専門家だけではなく、様々な分野の人々が徹底して考え、議論する必要があると考える。なぜなら、この問題に関しては、すべのひとびとが「関係者」であり、その語の本来の意味における「当事者」なのであるからである。

尊厳死に反対する

中西正司

尊厳死法の成立への動きは全国の障害者に大きな不安を与えています。障害者の中には呼吸器や経管栄養を長年にわたって利用しながら、学校に通い、社会参加をし、仕事をつづけ、幸せな結婚生活を送っている人も大勢います。この法律では、その人たちの人生途上での治療停止の恐れが懸念されております。医療は本来、命を支えるためのものだったはずです。尊厳死法では、医者の自殺ほう助を容認するような条項まであります。

重度の障害者たちは地域サービスの未整備もあって、家族の介助に依存しなければ生きていけない人たちもいます。その人たちは、家族への遠慮から延命治療を選択しにくい状況にあります。この人たちにとって、この法律ができることは治療を停止して、死を選ばざるをえない状況に追い込むことにならないでしょうか?現実にそのような悲しい選択をした障害者たちを私たちはたくさん見ています。

国連の権利条約が成立し、その中では地域での支援を受けての障害者の生活がうたわれています。「改正・障害者基本法」でもあらゆる障害者が地域で共生していくことをその第一条でうたっており、地域での介助を受けての生活は、日本においても法的に保障されているところです。地域によってはこのサービスが十分でないため、家族への過剰な負担がいまだに続いています。われわれは尊厳死法制定に反対し、さらなる地域生活支援サービスの充実を求めるものです。

今わたしたちに「死ぬ権利」は必要なのか?

川口有美子

これまで、安楽死尊厳死法制化の波は2回(1979年日本安楽死協会「末期医療の特別措置法」草案を正式発表、2005年与党による「尊厳死とホスピスを推進する与党議員懇話会」結成)ありましたが、三度目の上程の噂を聞いたのは昨年の秋ごろでした。これまでわたしは、尊厳死の法制化ではなく、たんに尊厳死の賛否で議論が沸騰し世論が混迷することを恐れて、過去に寄稿したことのない媒体への問題提起は躊躇していました。

しかし、ここにきて議連は法案2つを今国会に上程することを決めたそうなので、国民的議論に発展させる時期が来たとの思いを強く持っています。ここで大事な点は、尊厳死の法制化をどう考えるかという議論が必要なのであって、個人の尊厳死に対する思いを問うのではないということです。

議連によると、尊厳死法制化の理由のひとつに、「延命措置が強制されている」との指摘があります。これは医師・患者・家族間のコミュニケーションが不足し、合意が取れないまま、治療の開始や不開始が医師の独断でなされてきたことを述べています。そのような実態はたしかにあり、昨今では認知症高齢者の胃ろう人口の増加が問題になっていますし、02年の川崎協同病院、06年の射水市民病院などでは、医師が独断で患者を死に至らしめて刑事事件に発展しました。

終末期のこのような混乱を収めようとして、07年に厚労省は「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を制定し、家族も含めた関係者の綿密な話し合いを重視するよう、指導しています。

わたしは個人的には、このガイドラインをきちんと守ることにより、「治療の不開始」に関しては、患者本人の希望はかなえられると考えていますし、「治療の中止」にしても、学会等によるガイドラインで実施可能か否か、社会保障のあり方に照らしながら、引きつづき丁寧に検討していくべきであると考えています。

要は、個々の終末期をひとくくりにせず、関係者が何度でもよく話し合い、家族にも丁寧に対応できるシステムをつくることです。法律で病人を縛ることで、終末期医療への不信は解消できません。しかし、今回上程されようとしている法案2案では、いずれも、たとえ丁寧な話し合いのプロセスを省いたとしても、患者の自己責任(リビングウィルの書面通り)と言うことになります。

また、どちらの法案も終末期を定義していますが、そもそも終末期とは法律で一律に定義できるものなのか、議論しなければなりません。

この7月に行われた東京弁護士会主催の集会でも、終末期の定義が議論の的になりました。このとき20年間も日常的に人工呼吸器を利用し自宅で生活してきたALS患者※、橋本操さんが登壇しましたが、「彼女は終末期ではない」と、すぐ横から尊厳死協会副理事長の長尾氏は言いました。


※ALS(筋委縮性側索硬化症)とは、前身の運動神経が徐々に侵される難治性疾患で原因不明。治療薬はいまだ開発されていない。国内におよそ8500名。特定疾患に指定されているため、人工呼吸器をはじめ様々な医療機器に医療保険が適応されている。全身性麻痺のほかに嚥下障害、呼吸筋麻痺を伴うため、これらの症状に対処するために、経管栄養(胃ろう)による栄養摂取や気管切開による長期人工呼吸療法が勧められるが、これらの治療の選択は患者の自己決定とされる。これらの治療を開始すれば10年単位の生存が望めるが、長期入院できる病院はかぎられており、患者の多くも在宅療養を希望する傾向にある。在宅では、365日24時間不断の身体介護が必要になるが、家族に負担をかけないために、これらの治療を望まず、発症から2、3年で、呼吸筋麻痺と同時に亡くなる患者が多い。

しかし、実際には多くのALSが呼吸筋麻痺をもって終末期と断定されており、呼吸器をつけずに亡くなる者は発症者全体の85%にものぼります。これは、呼吸器をつけることによる生存の長期化にネガティブな主治医が、患者の自己決定を左右しているケースも多々あり、ALSの患者会では問題になっています。つまり多くの神経内科医が、呼吸筋麻痺を終末期と認識していることを物語っていますが、これに対してほとんどのALS患者に呼吸器を装着している病院もあります。

これまで議連は、尊厳死の法制化に反対意見を表明している人や団体(日本医師会、DPI日本会議、日弁連)に対して、形式的なヒアリングを2回実施しましたが、彼らを議論の輪に加えることはせず、日本尊厳死協会の意見ばかりを熱心に聞いてきました(というよりは、日本尊厳死協会が尊厳死議連の結成を働きかけました)。

そして、今国会中に法制化しようとする態度を変えていません。これら2案が各党にどのように持ち帰り検討されているのか、その事実も確認できませんが、議連は国会終盤に党議拘束を外し、二者択一で投票に持ち込もうとしています。

これは、尊厳死に対して悪いイメージはもたないが、法案の中身についてはほとんど知らされておらず、検討したこともない多くの国会議員に対して、考える猶予を与えず、二者択一形式で「どちらかひとつ」を選択させるやり方になりかねず、公正さも正義も感じられません。

各党の厚生労働委員会等の専門機関も通さず、法制化に慎重な法律家や倫理学などの専門家の意見も聞かず、障害当事者の「殺されるかもしれない」という恐怖の声も無視して、多数決による議員立法に持ち込もうとしているのですが、このようなことを民主主義と呼ぶのでしょうか?

これまでに行われた障害者団体への形式的なヒアリングは、議連総会の2日前にならなければ、時間も会場も知らせてもらえないような状況でした。外出のたびに福祉車両やヘルパーの手配が必要な重度身体障害者に対する配慮は微塵も感じられず、議論の場を求めてきたわたしたちには、国民の基本的人権を侵す政治が行われているとしか思われないのも当然です。

法案の中身については、次回に検討することとしますが、たとえば、この2案のうち、いずれが制定されても、「リビングウィル(治療を断る事前の意思表示)」の作成が、15歳以上に対して一律に、あらゆる場所で、都道府県の啓発事業として、政省令に則って、積極的に行われるようになります。

これは、いざというときの治療断念を、15歳以上に前もって文章で宣言させることですから、突発的な事故や急病で脳の低酸素状態がつづき、意思伝達機能が弱まれば、本当に危ういことになります。その場の医師の判断次第では、救命努力も行われなくなりますし、一か八かで治療を行った末、重い障害が残り、患者の思うように治癒できなければ、尊厳死法を無視したとして、医師は訴えられるかもしれません。これでは医師はますます委縮してしまい、治療に対する情熱を放棄してしまうかもしれませんし、重い障害をもった人への偏見はいまより増すようにさえ思われます。

この法律は、すべての国民に対して、終末期どころか、重度障害者に「なりそう」なとき(障害者になったとき)や、介護が必要な高齢者になったときの「死ぬ義務」を推進するものになりえます。ですから、尊厳死の法制化が、自分たちの生活にどのような影響を及ぼすのか、提出されようとしている2つの法案をよく読んで検討することが重要なのです。法律を制定するという作業は、日本の未来を決定すると言ってもいい作業です。
わたしたちは、尊厳死の法制化で、どのような近未来に臨むことになるのでしょう。病気や高齢や障害等で自分のことが自分でできなくなった人(食べられなくなったり、呼吸ができなくなったりした人)は医師が終末期と判定し、法に則って治療を控えて死なせていくことにより、自立した人だけが、長く生き残れる社会の構築が望まれているのか。それとも、自己主張できない高齢者や、人の介護を必要とする障害のある人でも、必要な治療を保障され、生きられるだけ生きられる社会が望まれているのか。

それとも、それらの中道を模索したいと思うのか。とにかく、今回のこのような拙速な法案の上程は、断固として阻止しなければなりません。終末期をめぐる社会のあり方を、自分や家族や友人のこととして想像し、学びあうための時間が必要です。

何度も繰り返しますが、わたしたち市民はいま、ほとんど何も知らされないまま、また国会議員の多くも、誰ともこの件についてまともに議論をしたこともないまま、尊厳死議連は「死ぬ権利」を法制化しようとしているのです。